先日このブログで紹介した『キジムナーkids』を書いた上原正三さんの46年前の作品「怪獣使いと少年」(『帰ってきたウルトラマン』)が中日新聞のコラムでとりあげられています。
噂だけを根拠に、民衆が暴徒と化し、罪のない宇宙人を殺してしまう。上原さんにとって、この作品の発想の元になったのが、関東大震災の朝鮮人大虐殺でした。
上原さんの脚本の精神を、この回でウルトラマンを初めて監督した若手の東条昭平さんはさらにエスカレートさせて映像化した、渾身の力作でした。
宇宙人である老人を民衆が竹やりで殺すという描写を、テレビ局のプロデューサーが「これでは受け取れない」と、撮影後にやり直しを命じ、警官が思わず発砲してしまい、死に至らしめるという展開に変わったぐらい、ぎりぎりのせめぎ合いで成立した作品です。
上原さんの記憶では、第1話から書いていたのに、この話をやってしまったためにしばらく干されたと言います。東条監督も、同じシリーズではこれ一回だけの当番です。
宮台真司さんは、子どもにウルトラマンシリーズを見せる効果というものを僕に話してくれましたが、過去の歴史を知らない世代にも、見知った設定の物語の中での寓話という形で感覚的に体験させることが出来る、ということだと思います。
僕が、自分の初めての単行本である、ウルトラマンシリーズの脚本家像に証言を得ながら迫った本では、上原さんの許可を得て、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』とタイトルを付けたのも、当時の作り手と、視聴者である子どもだった自分との接点を問い直すことの象徴でした。
閑話休題、中日のコラムでは、こういうサブカルチャーの作品にも埋め込まれているような「二度とこういうことをしてはならない」お守りの精神が、関東大震災の朝鮮人大虐殺という出来事を振り返る時にはあったのではないかと書かれています。
いま、それを小池都知事が手放そうとしている、と。
小池都知事は、おそらく支持層の中にある「ネトウヨ」的な気分に、目くばせしたのではないかと、僕は思っています。
勢いづいている「都民ファースト」も、そういう顔色を窺わなくてはならない意識になっているとしたら、絶望的です。
「都民ファースト」というのは、木蘭さんが昨今の日本人の風潮として指摘する、歴史や人間の営みに対する想像力の断絶の「ファースト」なのだとしたら、それを支持する都民は、ファシストの片棒をかついでいることになります。まさに悪循環。
今度は警官を押しのけて、民衆が自分たちで我先にと刃物で刺すような時代になってしまうとしたら、まさにディストピアSFの世界です。